201412080943
結局のところ
私はやっぱり
なんでもひとりでやっていくのかなぁと思う。
ひとりで戦って、
ひとりで生きていくための持ち物はずっと蓄えて鍛えてきたつもり。
これからも、その部分については糸目なく、日々成長していける自信がある。
でもそれが、誰かのためにとか、誰かをサポートしてとか、そんなんになると、いざというときにそっちを選択肢として選ぶことができない。
今回の失敗にしても、結局はそこんとこだったんじゃないかと思う。
自分の世界が確立されすぎている私は、それが被るとこで他人とのディスカッションや価値観の共有はいくらでもできる。それは一見とても価値あることに見えるから、それを深く共有していきたいと言ってくれる人は、限られた世界においてはたくさんいるんだけど・・・でも実際に、根っこの部分ではどうなんだってことになると、私はだいぶ歪んでて、でもそれは、自分自身の中では素直に真っ直ぐに存在するもので。素直に生きよう生きようとすればするほど、きっと他人との生活を共有することなんかできなくなる。それは誰しもがそうで、だからみんな、なにかひとつ大切なことを守るために、多かれ少なかれ我慢や無理をしていくんだろう。それなくして《共有》なんか成り立つはずない。
特に女性の場合は、自分の生活や価値観を置いといても相手をサポートする、ということに重きを置くことが多いから。
そして、多くの男性の場合、女性に求めることは経済活動や夢や目標ではなく、自分と自分の家族とその生活をサポートしてくれることだから。
根本を共有し難い私としては、誰かと《楽しさ》を共有することはできても、《生活》を共有したり、それをつくりあげていくことは、もしかしたらとても困難かもしれない。
見た目のインパクトと強引なライフスタイルの魅力だけで惑わせて、
パートナーとして最も必要な《根本》が合致してるかを見誤らせるんじゃないか
生活感/生活力がないっていうのは、結局のところ、相手じゃなく私自身のことだわ。
愛
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