えらちゃん



祖父

が、亡くなりました。

そのため、急遽予定を変更して、大阪から米子へやってきました。

66歳でした。

私の父のたったひとつ年上の“祖父”です。

大好きな大好きな大好きなおばあちゃんの、ふたりめの旦那さん。

ちょうど私の生まれ年から、27年間7期、米子市議会委員として務めておられました。

米子のことならなんでも知っている、議員さんとしてのえらちゃんしか、私は知りません。

『えらちゃん』

と、ずっと呼んでいました。

『おじいちゃん』

とは、
呼んだことも、思ったことも、一度もありません。

私が生まれた時には、もうとっくにおばあちゃんと家族でしたから、私にとってはおじいちゃんそのもののはず。

私は、生まれた直後から、母と一緒に長期で米子へ帰ることがとても多くて、随分とたくさんの時間を、米子のおばあちゃんちで過ごしてきました。えらちゃんと過ごした時間も、とてもたくさんあります。

思い返しても、その関係は、祖父と孫であったと思います。
とても大切にしてもらい、尊重してもらい、楽しませてもらい、愛してもらいました。

米子には、ふたりの従姉妹がおりますが、その子たちはえらちゃんのことを、おじいちゃん、と呼びます。自然に。

でも、私にはそうではなかった。

家族であることに間違いはないけど、でも、おじいちゃんではなかった。

小さい頃からずっと、私にはおじいちゃんがいないなーーーとよく思ってきた。

改めて考えてみると、えらちゃんは、愛にとって、なんだったんだろう。

愛は、えらちゃんにとって、なんだったんだろう。

いつもニッコリしていて、とにかくとても優しくて、愛が米子に来ているときには、愛のための時間をいつも優先して、いつも一緒に過ごしてくれた。

車の運転がとても好きで、おばあちゃんと従姉妹と、5人で米子から九州まで車で旅行をしたり。

いつも元気で明るかった。

影がちっともないひとだった。

3年前

末期の大腸ガンであることが発覚して、独自にガンの勉強をして、西洋医学だけに頼らない闘病生活をしてきた。

見た目は随分げっそりしていったけど、明るさと元気さと、いつものニッコリしている笑顔は、ずっとずっと変わらなかった。

4月

急に容態が悪化して2度目の入院

5月末

病院だとこれまで頑張ってきた独自のガンとの闘いがなにもできないからと、退院してきたので、一度会いに来た。

ベッドから立ち上がって歩くこともできず
水を飲んでももどしてしまう
熱も下がらず
苦しくて
しんどくて

『しんどいしえらいから、もういいかなぁ〜と思ってしまうときもあるけど、頑張るからね。絶対に治すからね。元気になるからね。』

相変わらずいつもと何にも変わらないニッコリした顔で、宣言してくれた。

帰るときには、ぎゅっと手を握って、『頑張るからね』って、やっぱりニッコリしたエラちゃんの顔で、言ってくれた。

絶対に治ると思ってたし、元気になって、また一緒に海へ行ったり米子観光したり、できると思ってた。

本当に。
本気で。

それから3日後

再入院のしらせを聞いても、まだまだもう一回元気になれるって思ってた。

4日後

危ないから米子へ向かうと母から連絡が入っても、まだ元気になれると思ってた。

その晩

亡くなったと連絡がきた。

愛の中でのえらちゃんは、最後まで、今も変わらず、ずっと、ニッコリしたいつもの笑顔でいる。

どれほどのしんどさと恐怖があったのか、それはもうはかりしれないけれど、それでも、最後の最後まで、いつもと全く変わらないニッコリした笑顔で、『頑張るからね』って手を握ってくれた。

結局、最後まで、未だに、えらちゃんから影を感じたことは一度もなかった。

ニッコリした顔ばかりの思い出。

こんなに、ニッコリした笑顔ばかりを思い出せる人って、そうそういない。

えらちゃんと過ごしたたくさんの時と、最後まで『頑張るからね』ってニッコリ手を握ってくれたことは、これまでと、これからの愛を成す、とても大きなものです。

えらちゃん、なんでそんなに優しくて、明るくて、強いの。

最後、そうして手を握ってくれたえらちゃんが寝ていたベッドで、あともう数時間横になって、今晩、横浜へ帰ります。

頑張るからね。
ありがとう。

2015/6/3/5:03



コメント